公人の覚悟
過日、千代田区平河町から赤坂見附に抜ける小道を
急いでいると、「大久保利通公 遭難の碑」の前に出た。
「維新の三傑」大久保利通が、明治11年(1878年)
5月14日、紀尾井坂(東京都千代田区紀尾井町)にて
襲撃されて暗殺された場所である。その日の午前8時
10分、二頭立て馬車に乗り、護衛もつけず、内務省へ
登庁のため、裏霞ヶ関の屋敷を出発。馬車が紀尾井町
1番地へとさしかかり、赤坂御門の前を過ぎ、壬生邸の
横に至った時、旧加賀藩士の島田一良ら6名の刺客の
襲撃を受けた。その際、刺客を制して冷静に書類を風呂
敷に包み、馬車から降りたところ、前後から刃を受けて
倒れ、止めを刺され、絶命したいう。享年49。
(紀尾井坂の変)
西南戦争勃発前に、西郷が参加していることが分かると、
西郷と会談したいと鹿児島への派遣を希望したが、大久
保が殺されることを危惧した伊藤博文らに朝議で反対さ
れたため、希望は叶わなかったという。また、西郷自決の
報せを聞くと号泣し、時々鴨居に頭をぶつけながらも家の
中をグルグル歩き回わり、「おはんの死と共に、新しか
日本がうまれる。強か日本が……」と呟き続けていたとい
う。西南戦争終了後に、「自分ほど西郷を知っている者
はいない」と言って、西郷の伝記の執筆を頼んでいたりし
ていた。また暗殺された時に、生前の西郷から送られた
手紙を持っていたと語られている。
金銭には潔白で私財をなすことをせず、逆に予算のつか
ないが必要な公共事業に私財を投じ、国の借金を個人
で埋めるような有様だったため、死後は当時の金額で
8000円(現在1億5000万円程度)もの借金が残ったと
いう。
不平不満を募らせていた士族の格好のターゲットになっ
ていたことは、本人も承知していたであろう。まさに命
を賭して、幕藩体制という旧弊を打破し、日本を近代国
家に生まれ変わらせることに邁進しつづけた生涯であっ
た。公人たる者の「気概」と「覚悟」を持った人生であ
ったといえよう。テロを賛美している訳ではないが、現代
このような気魄を持った政治家、経済人がいるだろうか。
福島第一原発事故の対応における、菅首相、北沢防衛
大臣、以下関係閣僚、関係省庁官僚、東京電力の勝俣
会長以下役員、本社社員は、大久保公の遭難の碑の前
で、「公人としての気概と覚悟」を、今一度脳髄まで思い
知り、この国家的災厄の対処に当たるべきと指摘したい。